岩崎弥太郎

激動の人生

 岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮の地下浪人の子として天保5年(1834年)12月11日に生まれました。幼い頃から和漢の書を学び、14歳の時、巡察に来た13代藩主・山内豊凞に漢詩を献じ、書を講じて褒美をもらったほどの秀才でしたが、一方では安芸の三奇童と呼ばれるほどのやんちゃぶりも発揮しました。

 安政元年(1854年)、弥太郎は江戸にでて安積良斎の門に入ります。大志を抱いての江戸遊学でしたが、父・弥次郎が酒席のけんかがもとで投獄されたのを聞き、すべてをうっちゃって即座に帰郷。奉行所に父の冤罪を訴えでます。
 あまりの激しい訴えが、奉行所の怒りを買い、今度は弥太郎までが獄につながれてしまいます。しかし、この獄中で不遇のときを過ごしていた元参政・吉田東洋と出会ったことで、弥太郎の飛躍の道が開きます。
 その後、復権した東洋から、その後を受けた後藤象二郎にも引き立てられ、弥太郎は次々に才覚を発揮します。

 慶応3年(1867年)長崎に設立した土佐商会で腕を振るった弥太郎は、版籍奉還の後、大阪に出て、明治6年(1873年)三菱商会を設立し、経済界に進出。
 その後は、長崎で坂本龍馬から得た示唆によって海運界に注目。国内ばかりでなく、外国資本とも激しく争い、またこれを圧倒し、「東洋一の海上王」と呼ばれるようになりました。
 さらに政府が肩入れをしていた共同運輸会社と覇権を競いますが、決着を見ぬまま、明治18年、激動に満ちた生涯を閉じました。

 のちには、16歳違いの弟・弥之介がその遺志を受け継ぎ、鉱山、造船、不動産、金融など多方面で活躍します。

貧しい生活

 岩崎家の先祖は、安芸地域を治めていた安芸国虎の家臣だったようで、のち戦国時代に土佐を治めた長我部元親に仕えたと言われています。関ヶ原の合戦後、山内氏が土佐藩主となってからは、山野に隠れて農耕に従事していましたが、江戸時代の中期に再び藩に仕えることで下級武士となりました。

 しかし、弥次郎の祖父、弥三郎が金に困って身分売り払ってしまったことから、弥次郎の代には没落し、「地下浪人」という農民とほとんど変わらない身分に転落してしまいました。

「吾れ志を得ずんば、再び帰りてこの山に登らじ」

星神社

 岩崎弥太郎の生家からすぐに妙見山という山があります。そこには、岩崎弥太郎のエピソードが残る星神社があります。
 手に負えないワンパク少年だった弥太郎が、安政元年(1854年)、江戸遊学に出かける際、裏山の妙見山に登り、星神社の社に「吾れ志を得ずんば、再び帰りてこの山に登らじ」という落書きをし、立身出世を祈願したと言われています。


岩崎家 家計図
家計図