弘田龍太郎

弘田龍太郎弘田龍太郎は、明治25年(1892年)6月30日安芸市土居に生まれました。父は明治初期の高知県議会議長もつとめた弘田正郎。教育者である父の転任に従って、幼時に安芸市を去り三重県立第一中学校から東京音楽学校に入ります。卒業後は、母校の講師を経て教授となり、筝曲の宮城道雄らと共に新日本音楽運動に参加し、日本舞踊に洋風伴奏を取り入れ新鮮な活動が注目されました。

また大正8年「靴が鳴る」、大正9年に「浜千鳥」「叱られて」を作曲。昭和3年には、文部省在外研究員としてドイツに留学し、作曲・ピアノを研究しました。作曲家として優れた才能を持ち、童謡はもとより、歌曲、器学曲など広い分野での作曲活動を行います。

晩年は幼児教育にたずさわり、放送講習会、リズム遊びの指導にあたります。昭和27年(1952年)病のため東京の自宅で永眠。大正・昭和初期の日本の代表的な作曲家。

生涯

明治25年(0歳) 高知県安芸郡土居村(現安芸市土居)に生まれる
明治31年(6歳) 父・弘田正郎の千葉県立師範学校校長就任により同付属小学校へ入学
明治35年(10歳) 父・正郎の三重県立第一中学校校長(現津高等学校)転任により津市へ転居。
明治38年(13歳) 三重県立第一中学校に入学。在学中より音楽的才能を認められる。
明治43年(18歳) 同校を卒業。東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学。
在学中すでに歌曲「昼」を発表。
大正3年(22歳) 東京音楽学校本科器学部ピアノ科を卒業。研究科に進む。
大正3年(22歳) 詩人高安月郊の娘で同級生の高安ゆり子と結婚。
大正5年(24歳) 同校研究科器楽部卒業。同校教授補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱される。
大正8年(27歳) 東京音楽学校研究科作曲部卒業、同校講師となる。この頃より児童文学雑誌「赤い鳥」の童話・童謡の文学的運動に作曲家として協力。「靴が鳴る」を作曲。
大正9年(28歳) 東京音楽学校助教授となる。この頃「浜千鳥」「雨」「叱られて」を作曲。
大正10年(29歳) 「雀の学校」を作曲。
大正12年(31歳) 「春よこい」を作曲。
昭和3年(36歳) 文部省在外研究員として家族とともにドイツに留学。ピアノ・作曲を研究。
昭和4年(37歳) ドイツより家族とともに帰国。東京音楽学校教授となるが、作曲活動専念のために同年9月には辞任。
昭和14年(47歳) 作曲活動のかたわらNHKラジオの子供番組の指導や児童合唱団の指揮、指導に当たる。
昭和21年(54歳) 日本音楽著作権協会監事に就任。
昭和22年(55歳) ゆかり文化幼稚園園長に就任。
この後幼児教育にたずさわり、放送講習会、リズム遊びの指導に当たる。
昭和25年(58歳) 名子屋女学院短期大学音楽主任、東京宝仙短期大学教授音楽主任に就任。
昭和27年(60歳) 病のため東京本郷の自宅で永眠。

童謡の曲碑

曲碑

安芸市には、弘田龍太郎の偉業を後世に受け継ぐため、安芸市内の名所、旧跡にユニークな曲碑が建立されています。

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